今日は自分の話
私は生き物に聴診器をあてる仕事をしていて、その生き物は家畜である。
突き詰めて、家畜である。
聴診も技術の一つで、心雑音を聞き分けることももちろん必要なスキルである。
心雑音にも色々な種類があって、それをふと聞いた時に、あぁ、これはもうだめだ、と診断することがある。
人間ならば手術などをして、家族ならば手術をして、生きていくことは可能なものもあるだろうが。
家畜ではこれは命短く、死ぬだろうし、万が一生き延びてもそれは生きているだけで、家畜ではない。家畜としての価値はない。ことは往々にしてある。
そのとき、この音はなんだろう、と思う。
一瞬で、たかだか二十数年生きてきただけの私が、
そんな年数が長くとも短くとも変わらぬ、ただ純然たる生きてゆけない音とは。
この心臓の音は、私が百歳だろうと、プロとしてどれだけ円熟しようと、しようとも、変わらずあるのだと思う。
傲慢な仕事だ。
命を判断することの是非について論じたい訳でも、何か批判されたいわけではない。そんなものはとうに過ぎた。
ただ、心臓の音は象徴としても、科学的にも命の指標だろうと思う。
動いていれば生き、止まっていれば死んでいる。例外を知らない。
動いていても死んでいることは色々な意味であるだろうけれど、止まっていて死んでいないことはない。
科学では。
では、生きているのに生きてゆけぬ、死を待つ音とは。この、心雑音がありますね、という言葉の内訳とは。
心雑音は、とても不思議な音で。
心臓の音だ、と思う 生きているから聞こえる音だ、とおもう
ただ違う音がする
この複雑な胸中を、誰に言うこともないのだけれども。ふと筆が向いたので。
生きていくために、その音を知りたい。
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